昭和45年12月06日  朝の御理解



 御神訓 一、「神信心して、みかげのあるを不思議とは、言うまじきものぞ。」

  例えば霊験と、言わば奇蹟という事。昨日高橋さんと久保山さんと二人で、十三日会の案内を作って、どういう事を書かせて頂こうかと言うてみえましたから、今度の場合は、こんな風に書いたらどうだろうかと言うて私申しました。先月の焦点が、一心の真を捧げての願いになろうと言う、その焦点が期せずして一心の真を捧げて願わなければならない様な事が起きた。それは幹三郎の入院と言うことであった。
 皆さんが、あの様に熱心に、熱烈な、御祈念だけではない、一心の真を捧げての、願いであった。大みかげを蒙って、ただただ、奇蹟と言うより他はない程しの大みかげになって、近いうち退院が出来る。今月の焦点が、御礼の為の精進という事、御礼を、只申し上げれば、それで済んだというのじやない。その御礼の為に信心修業させてもらう、御礼の為に精進させて頂こうと。
 今月はぎりぎり、そこのところに焦点を置かせて頂く訳でありますが、幹三郎のその様な奇蹟的なおかげに対する御礼の精進も勿論、同時に一年のしめくくりの月であるところの十二月の焦点が、その様に頂きましたから、言わば一年の事を振り返ってみて、あれもおかげ、これもおかげであったと思う事は、もう氷山の一角であって、実を言うたら、どの位の大みかげを蒙っているか分らない。
 そこんところを、御礼の焦点として、今月の信心の焦点を進めて行きたい。十三日会をそのような事をテーマに、信心の共励を進めて行きたいと、言った様な事を書きなさいと、私、申しましたんです。そこに只々、奇蹟と言う他はないとこう言う。けれどもそんなら奇蹟とか、霊験という様な事の現わるるは、不思議な事ではないとこう言う。けれども信心の薄い者、例えば神信心をしておっても、いわゆる本当に神信心、神を信ずる心と書いてある、神信心とは。
 同時に神信心とは、どう言う様な事に、在り方があらなければならないかという様なところに、信心生活がある訳ですが、そういう信心生活がね、出来ておるという事。そこにはね、いわゆる、霊験とか奇蹟とかは言うまじきものぞという程しのおかげが、そこに成り立つ様になっておる。頂かなければならん様になっておる。言うならば、五と五を足せば十になると言う、一つのきまりがある。法則なんだ、天地の。
 だから、五と五と足して十になった、これは不思議なこつじゃある、不思議なこつじゃあるという事は言わないでしょう。あぁたんとはどげな風ですか、私がつは五と五と足したばってんが、八じゃったと言うごたる風な、ただ違っておる訳です答えが。計算が五と五と足せば、十になると言うのが、当たり前なんだ当然なんだ。五と五をかければ、五五二十五になるのだ。
 私はね教祖様は、そこの所を間違いなく教えられておると思うですね。只信心しよりや不思議な事があるばの、信心しよら不思議なおかげ頂くよと言う、そういうもんと違う。そこでですそこで神信心という事になる訳です。昨夜は、壮年会の信心共励会でした。やはり幹三郎の事が、色々話にのぼった訳でございます。夕べの御祈念の後に、土居の久富さんが、昨日は、幹三郎の所にお見舞に行かれた、夫婦で。
 ところが廊下のところでひょっこりと、自分の里の方の遠い親戚にも当る大石という方に会った。「あら、あなたも、ここにみえてたんですか」と「それが家には、こげな風で、金光様の息子さんが入院してあるところの隣の隣に入っとる」とこう言う。そして手術も同じ日じゃったと、こう言われる。そういや、ほんにあの時に、皆さんがご用に行った方達が話しよった方は、あの方だった訳なんです。
 同じ様な症状であったと。ところがあちらはよかですねぇたまがる、お医者さんでん看護婦さんでん、たまがっとりなさるち言う。あそこがあんまり早うようなんなさるから。私の方はまだ管もとれとりません、ものも言えません。勿論その為には大変な毎日毎日、看護が大変だと言うてまあ悔まれた。そこであちらは奥様が、ずっとこうして見えとられるから、毎日お日参りが病院からありよんなさいますから。
 あぁたもどうでんこうでん、いっちょ連れのうて参りなさいと言うて、お勧めしてきたと言うて、その大石さんのお届けがございました。信心の有る者と無い者の違いを、はっきり、そこに見る様にある。同じああいう風に腫れて同じ症状。同じ先生が同じに手術をなさった。ところが一向に言わば遅々としておる訳なんです。信心の有る者と無い者は、親のある子と無い子程違うと仰るが、本当に親のある子と無い子程の違いを、そこにはっきり見るような気がする。まあそんな話が出ました。
 そこでね例えば、今度の幹三郎のこうした奇蹟的な、このおかげという事はねそのおかげに対しては、おかげを頂かなければならない様に、ちゃんと出来とったと。但し一歩間違えたら、言わば千尋の谷。けれどもまともに行きさえすりゃそこにちゃんと、おかげの頂けれる道が講じてあった。もう五と五と足せば必ず十になるという、それがあった。少し言葉が過ぎるかもしれませんけれどもです。
 その様に奇蹟がそこに表れなければならないような、一つの仕組みと言うかね、そういうものがあった。それをお話をすると、随分お話が長い事になりますけれども。例えばほんなら、旅行に行く事になって、お医者さんが旅行に連れて行かれないというところから、大体話せばずうっと分る訳です。どういう大変な日頃、頂いておる信心の応用問題でありましてもです。
 その事を応用問題を、例えば解いて参りますときちっとした答が、きちっとその場その場で出てきておる。幾つものおかげを頂かせてもらう条件が揃うておった。言うならば。第一その条件の一つを、第一の条件としてあげるならば、あれだけ例えば、私が十三日会のそれにも言っております様に、期せずしてです一心の真を捧げて願おうと、合楽の信奉者の全体がその気になっておるところへの、幹三郎の入院であった。
 だから期せずして、そこに焦点が、ばぁっと置かれた。毎日、百二、三十名平均、多い時には百五六十名からの人達のお届けがありましたからね、毎日。しかもそれがです、銘々が、例えば、只、お初穂をお供えして拝んだというだけではなくて、一日中の例えば自分の仕事なら仕事に取り組みながらもです。それがきつかければきついでも、難しい事であっても、これが幹三郎さんの病気全快につながる事ならば、これは修業として受けていくといった様な行き方が非常に強かったです、この度は。
 いわゆる、勢信心という事を申します。一人で持上らない石でも、大勢がかけ声を揃ええて、一、二の三で持ち上げれば、持ち上る様な道理じゃと仰る。それがもう見事に、この度は出来た。それがそんなら、そういう願いになろうと言う、ならねばならない事がもう、その前にその焦点が出されておったといった様なところから、もう間違いなさが発揮してきた訳ですよね。
 一心の真を捧げても、おかげが受けられんなんてん言うたら、もうそれこそいわゆる、お取次を頂いて頂く御理解不信という事になりましょう。不信とは、信じられないという意味です。日頃の御理解を頂いておる事がです、不信になってしまう。だから、どうでもそこに、正確な答が出てこなければならない事になる。又、出さなければならないと言う、一つの信心の勢い、勢信心の実がそこに上った。
 同時に、もう一つの絶対の条件はですね、本人自身、幹三郎自身がです、あの備前焼の慈母観音様の像を頂きましたあれです。いわゆる観音様にすがりきっておる、あの童子の、あの姿そのままにです、もうとに角、親先生に任せきってのものであった。それは主治医の先生が仰られたという事でありますけれども、この位の若さでこの位精神的に、言うなら、おかげ頂いておる者はなかったと言われた手術台に上る迄。
 もう親先生を言うならば信じ、親先生に命を預けておる。命預けての言わば信心がですね、そういう心の状態が、本人に出来ておったという事です。だからこの辺のところを、夕べも話した事ですけれどもですね。丁度、久富勇さんの奥さんのお兄さんが、やはりガンで、昨年でしたか亡くなりましたが、熱心にお母さん、それから奥さんもお参りになられました。おかげになるかに見えた、けれども結局は亡くなられました。
 けれども肝心要の本人も参ってもみえますけれども、とても俺がつはもう、金光様じゃようならんがと、もう自分で決めきってこげん離れておった。その条件だけでも欠けておるでしょうが。いくら親が一生懸命なっても、いかに家内が一生懸命なっても、本人がそういう様な状態である。だからそういう様な状態であっても、そんなら奇蹟は起るんですよ。例えばそこの合楽食堂のお婆ちゃんなんか、これはもう間違いない乳ガンであった。お婆ちゃんはもう家に帰りたい。けれども帰られない。
 もうお医者さんの手術やら受けたくないと、もう年も年だと。だからとに角、手術を受ける前、一遍、家に帰りたいち言う。帰って来たところが、もう病院には行こうごとないと言うが、どうしましょうかと言うお届けであった。だから帰ろうごとなかと言うなら、帰しなさんなち、私は申しました。椛目時代であった。それこそ、おかげ頂いた。そんなら本人が金光様にすがっておったとは思われない。
 けれども親の事を子が願うた、娘の一心がその様な奇蹟的なおかげになった訳です。もう益々一年一年かえって元気になっていきござる。今は必ず敬親会には出てみえてから、もう只その事だけが有難いち言うて参ってみえます。だからこういう場合はですね、やはりここではみかげとは言うまじきものぞ、奇蹟というのはないのぞと信心には。けれども信心も出来んのに受けとるのだから。
 やっぱり奇跡なんですやっぱり霊験なんです。けれどもここでは、そんなら神信心して霊験の現れを、あるを不思議とは言うまじきものぞと。五と五と足せば十になると言う、ひとつの法則がある様に、本当の意味に於ての神信心が出来ておるならばですね、奇蹟が起るのはもう当然の事、当り前の事。そんなら幹三郎の場合なんかは、そこんところの条件が、ぴしゃっと足ろうておった。勢信心。
 日に百名から以上の人達が、幹三郎の事を願われる。一人で持ち上らない石でも、大勢の者が掛け声を揃えて、一緒に持ち上げる様な事が出来たので、いわゆるおかげのそういう一つの条件がそこにあった。同時にもう一つポイントになるものは、本人が親先生にすがりきっておったという事。もう一つの大きなポイントになるところは、どこであったかと言うとね、私が実に淡々としてお取次が出来たという事です。
 あの十三日会の日に、小野先生が見えられて、もう百のものなら九十九は難しかと、手術が終ったら死ぬるとゆう程しのです、言葉を聞かせて頂いた時なんかはもう、実は私の心の中にはそれこそ微動もしなかった。いや微動もしなかっただけじゃありませんでした。これから私の出る幕だという気がしたんですもんね。これは事実。だから私は、昨日も壮年会の時に話したけれども、これが例えば、他の信者さんの子供であったら、こげな事は出来とらんと、私は申しました。合楽の素晴らしいのはそこだと私は思う。
 本当言うたら、自分の子供の方が、動揺してから、本当のお取次が出来んと言うのが普通です。お医者さんでも、いよいよ重態の子供の手術とか注射というのは、他所のお医者さんに頼まにゃいかんと言われるのは、そういう訳なんです。けれども、私の場合はね、今度の幹三郎の場合は、幹三郎が、お父さんに、いわゆる命を預けて任せておったという事と、皆さんの勢信心という事と、そすと、私のお取次に、もう実に淡々としたお取次が出来たと言う、三つの条件が揃うておった。
 まぁだ、おかげを頂く要素と言うか条件というのは、その話をするならたくさん有ります。けれども信心をさせて頂いてですね、ここのところの例えば、三つその重要なところですよね、ところが、相まって出来ておったという事。そこに言わば、不思議とは言うまじきものぞとおっしゃるが、不思議と言わなければおれない程しのおかげが表れた。そこでです、その次の御神訓にですね、「信心してみかげのなき時は、これぞ不思議なることぞ」と言うことです。信心してみかげのない時はこれぞ不思議なることぞ。
 それは何を問い、言うておられるかと言うとね、自分が信心しておるという信心はね、本当なものじゃないという事を分る。信心してみかげの無い時は、例えば、おかげを頂けなかった。奇蹟的なおかげを頂かなければならん、五と五を足せば十になるはずの十にならなかった。これは病気だけの事じゃありませんよ。一切、人間関係の事であろうが、経済関係の事であろうが、いわゆる死ぬか生きるかといった様な健康の問題の事であろうが、同じ事が言える。
 そこにおかげが受けられないのはです、信心してみかげの無い時はこれぞ不思議なる事であるから、これはどうした不思議な事であろうか、おかげの受けられんのはどうした事であろうかと、そこに焦点を置いて考えてみるとです。真の信心、言うなら、信心のみ教えを鏡にして置いて見てみると、おかげが受けられないはずだと言うものが出てくる。そこでです、そういう信心というのは、それは大変な難しい事であろうと思うのですけれども、実はそうではない。
 そこで今日のね、いわゆる、神信心してという、だからこれは、常日頃の事が言われる訳です。常日頃が神信心してになっておるかどうか。昨日も私、申しましたですね、いわゆる本当の生き方という事を。信心させて頂く者の本当の生き方。いや人間の全てがです、もう誰も彼もがです、こういう生き方にさえなれば、必ず、人間が幸せになれるんだと。ですから、信心させて頂く者が、まず。
 そういう信心生活が出来る様にならせて頂いて、これを世界中の人間氏子に広めていこうじゃないかというのが、言わば、今年の願いと言うてもいいでしょうね。世のお役に立たせて頂こうという事。一言、二言、世の為になるような事をした位の事で出来る事じゃない。まず自分自身が本当の助かりを頂く。自分自身が本当の生き方を覚えさせて頂く。人間の本当の生き方、だから。
 その生き方とか生き調子といった様なものを体得する。そういう生き方そういう信心生活の中にです、これも又期せずして頂けるのが和賀心。言うならば和賀心を追求しての生き方人間の本当の生き方。だから金光様のご信心をするならね、その本当の生き方を覚えなければ駄目なんです。それを合楽ではね成り行きを大事にさせて頂こう、成り行きを尊ばせて頂こう、本当にここの所はもう一つ馬鹿と阿呆でいこうと言った様な生き方に、ぎりぎり焦点を置いて、日々信心の稽古をしている訳なんです。
 だから他にも本当の生き方という説明はありましょうけれども、私は本当の生き方とはね、成り行きをいよいよ大切に大事に、どんな場合でも馬鹿と阿呆になれるだけの、常日頃の信心修業というものが出来ておるという事なんです。そういう生き方なんです。そういう生き方が、人間の全てが出来る様になる時に、世界真の平和というのがあるのです。本当の生き方、教祖の神様という方はねそういう人間として最高の、本当の生き方をなさった方なんです。そういう生きられ方をなさった方なんです。
 ですから、そういう生き方、生きられ方をです。私共が日常生活の上に表して、頂いて、表して行かなければならないという事になります。神信心とはそういうこと。ここで言う神信心とは。言うなら、常日頃に真の信心が出来ておればです、もうそこには、霊験と言う言葉は使わんでもです、もう当然の事。五と五を足せば十になるという答が出てくるんだと。はぁ五と五と足したら十になった、これは不思議なこっじゃある、なんて事は言わんでしょう。
 そこんところを、日々、繰り返し繰り返し稽古をさせて頂いておる中にもです。今日は、あそこで失敗をした。あそこでは馬鹿と阿呆にならんで利口もんになった。あそこは成り行きを大事にしなければならんところを、人間心を使うて、こげんしたと、言う事にもなりますよ。そこを日々お詫びをして、解決点を出していく訳です。詫びれば許してやりたいのが親心じゃと仰るから。
 その親心にすがって。今日もお粗末御無礼のところを、あそこもいけませんでした、ここもご無礼でしたと、そこを詫びていく訳なんです。又は、あれこれと気が付かなかった中に、それこそ、知らず知らずの中に、どういうお粗末が、御無礼が出来とるやら分りません。どうぞ、平に平にお許し下さいというような謙虚な行き方をするのです。成り行きを大事にさせて頂きながら、本気で、いよいよの場合、馬鹿と阿呆にならせて頂きながら、それでも尚かつ、人間の事であるから。
 どこに生き方の間違い、お粗末ご無礼、考え違いがあったやら分りません。そこのところは平に平にお許し下さいという謙虚な信心、いわゆる信心の姿勢と言うかね。そういう姿がです、毎日毎日、そこに答が出てくる。いわゆる、詫びれば許してやりたいという親心の中に、毎日を生活していく。ですから、いつ、どういう突発的な事が起ってもです。もう医者は九十九パーセント、駄目だと言うてもです、後の一つのところでおかげの頂けれる計算がちゃんと出来ていきよらないけないという事なんです。
 だから、今度の、私は、幹三郎の事に限ってですね、なる程、霊験という事ではない、奇蹟というのではない。ただただ、奇蹟と言うより他はないと、言わば十三日会の案内には書いてあるけれども、実を言うたら奇蹟じゃない。当然、そうあるべくしてあったんだと、又、そうなるべくしてなったんだという事が言えるんじやないでしょうかね。なる程、教祖の神様は、そこのところをです、神信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ、と教えられたのであります。
 ところが、私共の場合はね、只今も申します様に、信が薄かったり、神様を信ずる心が薄かったり、又は、本気で任せきらなかったり、又は、勢信心にならなかったり、又は、常日頃の信心に疎漏があったり致しますところにです。信心してみかげのなき時はこれぞ不思議なる事ぞとおっしゃる。信心して、例えばそこにみかげが現れていない時はです、自分自身の至らなかったところを、いわゆる猛反省させて頂いて、次の段階には、そこが改めて、次の信心に進んでいけれるという事になる訳です。
 だから、ここで言う神信心、いわゆる本当の人間の生き方。皆さん、どうぞこれだけは一つ、もう覚え込んどいて下さいよ。そしてそれを一つ地をもって行じていって下さいよ。それが人間の本当の生き方なのですから。本当の生き方をするから、本当のおかげが顕れんはずはないのですから。いわゆる、本当のおかげ。それが脇から見たらば、ほんに不思議なこっじゃあるという様なおかげなんです。
 普通で奇蹟というものは、何遍でん重ならんと言われとりますね。偶然なんかというものは、そんなに重なるもんじゃないと言われておる。けれどもねいわゆる偶然の連続、奇蹟の連続、そういうおかげが頂けれるのが、私は金光大神の信心だと思うのです。もう毎日毎日が不思議でこたえん、そういう生活が出来る。そこでそれを、私共が信心の稽古の焦点をですたい、人間としての人間の本当の生き方、それを金光大神に習う。
 金光大神が、人間としての本当の生き方をなされたところにです。自他共に助かっていく道が開けてきて、金光教がこの様にして、段々、おかげを蒙ってくる事になった。その金光大神の生きられ方こそ、本当の人間の生き方だという事になった。その生き方は、そんなら難しいかと言うとです、そこんところの根本のところが分らせて頂くとです、言うなら、そんなら成り行きを大事にしてさえ行きゃよかたい、馬鹿と阿呆になってさえ行きゃよかたいと、それだけなんです。
 けれども実際は、その成り行きを大事にして行くという事の難しさにも直面しますね。馬鹿と阿呆になる事の難しさも分りますね。けれどもそこが修業なんだ。それを一遍で覚える、体得する事は出来ませんけれども。それをなる程、馬鹿と阿呆になって行きゃおかげ頂くんだな、成り行きを大事にして行きゃ、尊んでいけば有難い事になってくるなという体験がです。十年二十年経って行くうちに、絶対なものになっていく。いわゆる絶対信なのである。神様を絶対信ずる事の出来れる毎日が、少して行けれる様になる。
 子供がもう明日は難しかかもしれんと、例えば医者から、実際に言われてもです。それこそ、自分の心の中に微動だもせんで済む様な絶対信の心というものが培われてくる訳なんです。だから、本当の生き方というのは、その様に素晴らしいものだ。そこでほんなら、親先生は本当の生き方が出来てござるかと言うとです、実際は出来ていない。けれども、そこんところをです。
 自分で気がついたところは詫びて詫びて詫び抜かせて頂いて、お詫びの修業をさせても貰い。又、自分では気がつかないところは、知らず知らずの内に起きた、お粗末ご無礼は、どうぞ平に平にお許し下さいという、低姿勢と言うかね。神様の前に、平身低頭して詫びて許されたという気持がなからなければ、明日は迎えられないという位な、言わば慎重さをもってね、私は信心生活しておる事は事実であります。
 完璧な生き方が出来ておるとは思われない。けれども、そこは生身、そこは人間、だからそこんところは、けれども神様は、そこんところも、しゃっち出来なければ、おかげはやらんとはおっしゃらん。詫びれば許してやりたいのが親心じゃとおっしゃるですからね。私は、今日は、神信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞと言う。この御神訓にもとづいてですね。
 余りにも、私が昨夜から考えておった事、同時に、幹三郎の事が、ここに、きちっと当てはまる感じが致しました。神信心とは、本当の生き方をする信心。そんなら本当の生き方ちゃ、ちょいと難しかと言うのじゃなくて、いわゆる私共は、永年、稽古に稽古をしてきた、成り行きを大事にさせて頂こうという様な生き方こそがです。真の信心であり、真の生き方であるという事を、いよいよ思い込ませて頂いて、そういう稽古を本気で、一つさせて頂かねばならんという事になりますですね。
   どうぞ。